シンガポールでいちばん通った場所は、リトル・インディアとアジア文明博物館。今回は、その思い出と真珠をすーっとつなげてくれた一冊の本の話。
■そういうことだったのか!南インドと真珠
真珠にはさしたる興味を持たずに生きてきた。真珠を身につけるときのかしこまった雰囲気とか、なんともいえない清らかさに反感を抱いていた時期もあった。たぶんこの『真珠の世界史ー富と野望の5000年』(山田篤美著)に出合わなければ、ことさら惹かれることもなかっただろう。あ、いや、その前に。読もうと思った理由は、真珠がそこにあったからなのだけれど。
父の生業だったがゆえに関心が持てなかった反面、ぜったいに粗末にしてはいけないという気持ちがあった。だからなんだか付き合いづらい。そういう相手との関係をいきなり変えてくれたのがこの本だった。
まず驚いたのが前書きの一行。「丸くて美しいアコヤガイの真珠は、アラビア半島と南インドの海域でしか採れなかったからである」。おおっ、よりによってインド、しかも南インド!「真珠といえば日本」というのは、近年養殖に成功してからのことで、それまでは貝が自由気ままにつくる天然真珠のみ。その産地のひとつが南インドというわけだ。すごい。なんだか引き当ててしまった気分。
なぜそんなに興奮しているのかというと。シンガポールでインド文化に惚れた身としては、南インド、特にタミルはとても身近な存在なのだ。シンガポールの人口のおよそ9%がインド系、その中で最も多いのが19世紀にタミル地方からやってきた人たちの子孫。街のあちこちにドラヴィダ様式のヒンドゥー教寺院があるし、おいしいミールスやティファンのお店も豊富。コマラヴィラスのミールスははいったいどれくらい食べただろう。ムルガンイドゥリショップのチャトニは最高においしかったなあ!・・と、ごはんのことになると別のスイッチが入ってしまうのだが、まさかそのタミルが真珠とつながっていようとは。
■スパイスや綿織物と一緒に?
『真珠の世界史』によると、南インドとスリランカの間にあるマンナール湾に、アコヤガイが生息していたという。古代インドの王朝では基本的に王様のものとされていた真珠だが、長いことタミル地方をおさめていたパーンディヤ朝は積極的に輸出していたらしい。ふむふむ、産地を持つ強み、そしてなかなかのやり手。
ところで、パーンディヤ朝の勢力範囲には確実にコロマンデル海岸があったはず。となれば、やっぱりインド更紗に思いを馳せずにはいられない。前記事で紹介したグジャラート地方のアジュラックは、模様を版で押していくブロックプリント。これに対し、コロマンデル産で有名なのはカラムカリと呼ばれる手描き捺染。いやもう、その美しさといったら!19世紀のヨーロッパ人が虜になったのも分かる。
思い出すのはシンガポールのアジア文明博物館で見た「インドテキスタイル展」のこと。交易でインドネシアに渡ったインドの布を中心にした展示で、13世紀の布まで見ることができた。よく残っていたなあ!と感動。
しかし。そのときにもそのあとも、真珠がコロマンデル海岸と近いマンナール湾で採れていて、おそらくはカラムカリやスパイスと同様にヨーロッパに連れていかれていたなんて思いもしなかった!パーンディヤ朝は紀元前から14世紀まで南インドで断続的に続いた王朝なので、いつごろどんなふうに真珠が運ばれていたのか、何と交換されていたのか興味津々。これからちゃんと調べなきゃ。それにしてもなんだかうれしいなあ。スパイス、インド更紗、真珠。私の頭の中だけではなく、古い時代からちゃんとつながっていたんだ。
■タミル語のமுத்து
『真珠の世界史』からもう一か所だけご紹介。「真珠の宝飾品の名前は数によって異常に細かく定義されている。(中略)こうした名称の細分化は、古代インド人が洗練された真珠文化を育んでいた証拠といえるだろう」。いろいろな名前、気になる。そういえば真珠はタミル語でなんていうんだろう?
「முத்து」読めない。アルファベットに置き換えてみたら、Muttu。あれ?もしかして「ムトゥ 踊るマハラジャ」のムトゥとスペルが同じ?・・などとまたどんどん話が逸れてしまうのだが、真珠の呼び名を調べ始めたら、おもしろいことに気づいてしまった。このあたりは後日改めて。
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