2023-04-18

真珠とビーズをめぐる旅 04 神戸と真珠とインド

神戸。真珠旅をするなら外せない場所。でもなぜ?真珠が採れるわけではないのに。ここは昭和の歴史をひも解く必要がある。でもその前に自分の昭和をつい振り返ってしまう。そしてなぜか心は古代インドへ。

by Takashima Keiko

■数十年ぶりの北野

初めて神戸に行ったのはぎりぎり昭和だったと思う。その後の4〜5年、仕事の関係で年に数回は訪れていた。記憶の中の神戸は、気持ちのよい風、そしておいしい中華とイタリアン。時代が時代だったからかもしれないけれど、私の軸も今とはちょっと違っていたんだな。もちろん(と毎回強調してしまうが)神戸の真珠店には一度も入ったことがなかった。

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数十年ぶりに北野を歩く。相変わらず風情のあるエリア。シナゴーグやモスクは記憶にあるが、ジャイナ教寺院の美しさには気づかず素通りしていたかも。ジャイナ教に興味を持ったのはシンガポールにいたころだから。理由は・・・正直に言おう。初めて食べたジャインフードがすばらしくおいしかったのだ。ジャイナ教に基づく食の教えはなかなかに厳しく、菜食であるばかりか、根菜など一部の野菜や発酵食品、キノコなどもNG(どこまで守るかは人それぞれ)。限られた食材だからこそ、素材のおいしさを引き出す術を得たのだろうか。それにしても、ニンニクもタマネギも使わないインド料理がこんなにおいしいなんて!と驚いた。

■紀元前のインドに思いを馳せる

神戸にはジャイナ教徒が多く住んでいる。その多くが真珠業に携わっていると聞く。とても興味深い話だ。
ジャイナ教は紀元前500年ころにインドで生まれた宗教。ヒンドゥー教の前身であるバラモン教が祭祀万能主義に陥り、バラモン階級ばかりに特権が与えられるような格差社会の中、何人もの思想家が立ち上がった。その中でいちばん勢いがあったのが、仏教の開祖であるゴータマ・シッダールタとジャイナ教のマハーヴィーラ。私が知っているのはここまでで、ジャインフードの奥深さや真珠との関係まではまったくたどり着けていないのだが、考古学者の小茄子川歩先生から聞いた話が印象的だった。ジャイナ教はガンジス川中下流域、つまり、バラモンの力が強い上流域からちょっと離れた、商業が盛んなエリアで生まれた。そして、保守的なバラモンたちからは低く見られていた商業活動をきちんと評価することによって発展したという。つまり、商人の信者は最初から多かったということだ。

宝石商や金融業にジャイナ教徒が多いのは、不殺生の教えを守るために、虫などを殺してしまう可能性のある農業や林業には就けないから、という話はよく聞くけれど、こんな時代背景も関係しているのかもしれない。ひょっとすると紀元前500年までさかのぼってもずっと商人、という人が、今の神戸で真珠商を営んでいるかも!

でも、なぜ宝石なのか?グジャラートやラジャスターンなど、宝石と関係が深いエリアにジャイナ教徒が多く住んでいることと関係しているのだろうか。妄想の羽を広げながらあれこれ調べてみるが、うまくたどりつけない。これはもう現地で聞き回るしかない。行こう、グジャラートとラジャスターンへ!いや、その前にまず神戸。なにしろ神戸は真珠に関わるインド系企業がとても多いところなのだから。というわけで、紀元前から現代の神戸に話は戻る。

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ランチは「クスム」にて。毎日食べたいお母さんの味。こういうケのごはんがいちばん好き!

■日本の真珠は神戸から世界に旅立った

北野歩きは看板を目で追うだけでも楽しい。インド系の多さがなんとなく分かる。しかし、ほとんどはBtoBの会社なのだろう、店舗は少ない。それでも真珠とともにインド雑貨を置く店もあり、そこには最近見慣れたインドや西アジアのビーズがあることに少し感動する。そうそう、つながってるんだよね、ビーズ文化と真珠。ふらりと入った真珠店には、インド系のお客さんが数人。つい聞き耳を立ててしまう。どうやらインドからやってきた親戚を案内しているようだ。

神戸とインドのつながりを肌で感じられることに興奮したのもつかの間、港側に移動するとほとんどインド色がない。ふうむ。気を取り直して、神戸行きを決めたタイミングで閉鎖を知った真珠会館に向かう。一般公開は3月いっぱい、ぎりぎり間に合ってよかった。1階にあるミュージアムの展示に見入る。

「国際貿易港として栄えていた神戸・外国人居留地では、真珠産業の発展とともに日本から世界へ送り出されるアコヤ真珠の輸出拠点として『日本真珠会館』が誕生しました」(神戸パールミュージアム展示キャプションより)。20世紀初めに日本が真珠の養殖に成功して以来、三重や愛媛、九州の産地から近いという地の利もあって、神戸は日本の真珠の集散地となった。第二次世界大戦直後は、米軍の将兵の帰国みやげとして真珠は大人気。1952年に真珠の輸出検査所もおかれ、日本の真珠のほとんどが神戸から旅立っていったという。集散地に加工業者が集まり、商人もやってくるのは世の常。ジャイナ教徒の商人はどの時期に?と気になるが、展示になぜかインド人は登場しない。

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70年の幕を閉じた日本真珠会館。昨夏まで入札が行われていた部屋は、採光を重視した細枠の大きな窓が印象的。神戸の真珠の歴史がひと目で分かるミュージアムが閉じてしまうのは残念だが、資料は神戸ファッション美術館に引き継がれるとのこと。

ジャイナ教徒の多くが移り住んできたころの北野、どんな雰囲気だったのだろう。古代インドは無理でも、昭和の神戸ならがんばればタイムトリップできそうな気がする。というか、人の記憶も写真も確実に残っているはず。もっと知りたいので、このあたりは自分への宿題に。

■神戸の前はボンベイだった

さて、世界一の真珠の集散地となった神戸だが、その前はどこだったか。気になって調べると、愛読書の『真珠の世界史』にちゃんと書かれていた。インドのボンベイ(ムンバイ)である。そういえば、ボンベイで束にされた「ボンベイ・バンチ」が世界中に輸出されたという話には聞き覚えがあるぞ。そうだ、鳥羽の真珠博物館だ。インド人は加工の技術に長けていて、芥子粒のような珠にも穴を開けられるという話も某所で聞いた。

というわけで、次回の真珠旅は昨年の秋に訪れた鳥羽の話を。

参考: 「真珠の世界史ー富と野望の5000年」山田篤美(中公新書)


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